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ヨガにおける「人間の理想型」と、その呪いの側面

こんにちは!


 

私のクラスにいらっしゃる皆さまは、レッスン中のお話や、実感を通して、


ヨガが身体だけでなく、心の調整も目指していることはよくご存じだと思います。


調整する=偏りを是正するからには、目標となる、ヨガ的な「人間の理想型」というものが存在し、


突き詰めていくと、生活全てが鍛錬の舞台となります。


例えば、基本姿勢としての「ヤマ・ニヤマ」は有名で、


非暴力、嘘をつかない、盗まない、禁欲する、足ることを知る、苦行に勤しむ、聖典を読誦する、など、


やってはいけないこととやるべきことが10ほど挙げられています。


あるいは、聖典『ヨーガ・スートラ』においては、乱心の状態として無気力、疑い、渇望、妄想など、


誤認知の種類として有限無限、苦楽などなど、


心の偏りの特徴を細かく定めており、


つまりはそれらが少なく、心身がよく統御できている状態を理想としています。


苦楽の誤認知を例に取るならば、


お腹が減っていないのに間食をした場合、目先の欲望は満足=楽ですが、カロリー過多や生活習慣病という苦がその先に控えています。


苦楽を正しく認知していれば、見せかけの楽を選ばず、その先の苦も避けられて、全体的長期的な楽を目指せます。


ここで述べたのはほんの一例ですが、このような理想型および異常型の基準を用い、人間の心身を見立てる技術が、ヨガにはあるのです。

 


しかし、いざ実践してみると、これがなかなかにハードルが高い…!!🥺


基本姿勢「ヤマ・ニヤマ」とて、当たり前のことばかりのようですが、


・盗まない→どこかで聞きかじった他人の意見を我が物顔で語らないことも含む。無意識であってもNG


・足ることを知る→今ある環境に満足する。スマホを通じた、比較や羨望や消費を促す情報の洪水にあっては至難


というように、徹底するとなると自分の全てのふるまいに意識を張り巡らせなければいけません。


乱心、誤認知、その他の精神統御となるといかばかりか。。。


それらをすべてクリアしている人なんて、それこそ聖人と言われるレベルぐらいなんじゃないかと思うほどです。


職業柄、私もこの理想型なるものを普段から意識することが多いですが、


そこに近づくどころか、周囲の出来事や感情に振り回されて、己の不完全っぷりを痛感するばかり😓


小さな子供がいて激流状態の日々なので尚更です。


理想型からあまりにかけ離れていて、レッスンのなかでそれについて言及するのが憚られることもあります。


インドのヨガ行者が世を捨てて人生の全てを捧げて修練していることからも、ヨガの理想型は、俗なる世界で生活しながら容易に到達できるものではないのでしょう。


そして高い理想とは、達成していく甲斐はあれど、うまくいかず現実との懸隔に拘泥しすぎると、至らぬ自分を責める呪いになってしまいかねません。


特に生真面目でもがきがちな人ほど、その恐れがあります。


でも、ヨガをやって苦しむのも、普通はあんまり望ましくないし、


人にとって有用な智慧として受け継がれてきたヨガなのだから、世を捨てずともそのエッセンスを取り入れることはできそうな気がします🤔


現代の一般的な生活に身を置きながら、俗なる刺激の翻弄も、完璧主義の病も回避し、精進していくには、どのような感覚が必要なのでしょうか。


 

答えは出ていませんが、ヒントになりそうなものを最近ひとつ見つけました😳


私は昔からお笑い、なかでもアクの強いお笑い芸人さんが好みで、最近のヘビーローテーションは『東野幸治のホンモノラジオ』です。


公式YouTubeで全回視聴できるので、1人家事のときや、タスクの合間に趣味のイラストを描くとき、作業BGMとしてよく聴きます。


東野幸治氏は、キャリアも長く、芸人界大御所クラスの実力者ながら、偉そうな雰囲気を纏わず、若手とガンガン絡んで、


音楽、映画、ドラマ、アニメ、読書、ファッション、登山など興味があるものを貪欲に吸収して、


テレビの仕事もこなしながら、自分のYouTubeチャンネルをほぼ自分で運営したり、マイナーなイベントなどにも参加したりする超活動的な人です。


そして、ゴシップ好き、毒も吐くし、人の悪口も言う(悪口は言うけど愚痴は言わないらしい笑)、


話を聞いていると交友関係は広いのに”友達はいない”と公言し、


ミーハーな反面、冷徹・無感情と評される不思議なキャラが、お笑い好きの共通認識です。


ラジオ内でもその人物評通りのエピソードが展開されていき、


ポジティブではない観点の話が多いのに、変に引きずっている様子がないためか、悪気が全然ないためか、


よくわからないけど何か潔くて、ゲスい内容でも心地よく、クセになります笑


ひねくれたリスナーのメールを、ひねくれた視点で捌く場面は、特に何も解決しない新感覚のお悩み相談にも見えます。


そんなラジオがなかなか人気で、もう数年間続いていますが、


YouTubeコメントに聴視者の誰かが書いていた次の感想に、膝を打ち深く共感しました。


”自分に欠けていることが多く、反省することだらけの日々だが、この人の話を聞いていると、そのままでもいいかと思える。”


この方の、(少なくとも見えている部分は)決して聖人ではない生き方が、一定の救いをもたらすことも事実のようです🤔

 


転じて、高邁な目標や、立派な思想、綺麗事が並んでも、心に響く場合と響かない場合があって、


それらは正しさを帯びているだけに、耳の痛さ含め、聞いていて居心地が悪くなることもあります。


ヨガの「理想型」に生真面目に取り組むことで抱くしんどさも、そのあたりに原因があるような気がします。


正しさやそれを目指す感覚は、自分のなかで育むもので、外部に教わることはあっても、追い立てられて向かっていくものではないと思います。


ギャップにもがいて磨耗するぐらいなら、外部に立ちはだかる理想型はいったん忘れて、


その外観はご立派なものではなくとも、お好みの毒に身を委ねた方が癒されることもあるというのは上述の通り。


それにより、自分の不完全な部分も受け容れて、いたずらに自分を責めることが軽減すれば、


それはすなわち自分への非暴力であり、基本姿勢「ヤマ・ニヤマ」の一部を強化できたとも言えます。


俗なる世界にいる以上、俗なる刺激を潔癖的に退けようとするよりも、そこに塗れながらも自分を知り直すというのが、


この場合はより現実的な、ひとつの方法というところでしょうか。


そういえば、私のヨガの先生も、家庭や職場のどうしようもなかったり犬も食わなかったりする話をネタにして、


それらを頭から否定はせずに、毒も吐きながら面白おかしくヨガの話につなげるのが上手だなあ(先生もアクの強い人物です笑)。


もがき続けている人間からの、まだまだ答えには至らない、取り止めもないお話でした😌

 
 
 

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